マイクロソフト教徒の東方遠征 

当時の極東
1970年代終わり頃、インテル教のマイクロソフト教皇、ビルゲティウス三世はアスキス汗国のケイ・ニシ氏の突然のヘリコプターによる訪問を受けた。当時、極東海岸ではナルケ・モーロ「東京美味しんぼ見聞緑」と後に呼ばれるマーケティング手法が興りつつあった。この頃の東方のヒトビトは、経済成長に沸いており、街には黄金がバブルの様に溢れ、新しモノずきでイナカ者が大好きなハイスペックなモノしか購入したがらない贅沢な国民性となりつつあったのである。
ニシ氏のアスキス汗国はナルケ・モーロやフルカワックを手下として、更に東にあるニチデン王国の首長ナベ・カズなどのハードウェアメーカーにマイクロソフト教「基本(BASIC)乃記」を布教したのである。ナベ・カズは当時、いち家電メーカーだったニチデン王国を TK-80 などで東方最大のPC帝国にし、また、後のインテル教86教義を改良したニチデンV30教義を極東国内に復旧させた功績をもって、引退後も後のノベティア大使館の東方館長を勤める事になる。
当時の東方に限らず、西方PC緒族もやはりPC緒族というより、守秘義務署名をやたらと求めるアリャモンクの中央集権的なIBM帝国を嫌い、ワシラはみんなマイコン族と名乗ったのである。  
  

ゼニックソ
ゼニックソはマイクロソフト教徒が外注し開発した東方OS教義であったが、これは開発に金魚のフンみたいにゼニがかかったためにゼニックソと呼ばれた。このOS教義はマイコン族の流儀に合わず、結局商業的に失敗した。  
 
アキテクチャ公開王子
970年代も終わり、IBM帝国の地方都市ボカルトンで画期的なプロジェクトが進行していた。PCグループの首領(ドン)エストリッケ王子によるPC世界南方開拓計画である。何事も守秘義務契約で有名だったビックブルー帝国は、当時勃興してコンピュータ世界に進入してきたシリコンバレーのマイコン族出身のガレージ諸侯に対抗しようとしていた。そのためアキテクチャ市民権を公開して与えると言う、エストリッケの先見性に従って何事もオープンな大西洋に出て勝負する必要があったのである。そこでビックブルー帝国はインテル教徒が新しき神として期待していたx86アキテクチャを採用した。IBM帝国は将来のPC世界を制覇するための、OS教義の開発を断念し、当時はまだ小さかったシアトル教皇領のビルゲティウスに、守秘義務契約書にサインをさせ、OS教義の開発を打診したのである。このアキテクチャ公開王子と呼ばれたドン・エストリッケ王子(公開王子)の先進的なアイディアの代わりにIBM帝国はオペレーティングシステムソフトウェアと呼ばれるPCのノウハウをビルゲティウス教皇に売り渡す事になってしまった。

コロンデルの新OS発見
シアトル郊外にあるアスヤロ伯領テムパ・タソン伯爵は、シアトルに生れ、アスヤロ伯領でソフトウェア産業に従事していた。しかし、彼は自ら開発した86QDOS教義が、アスヤロ領内で、充分な発展性がないとわかると、隣のシアトル教皇領のビルゲティウスの訪問を受けた事に感激し、PC世界でこの教義を発展させるよう努力すると誓ったのである。後に、ビルゲティウスはこの教本を僅か五万ディユカスで買い取った。このアスヤロ伯からマイクロソフト教徒へ、転教した事でテムパ・タソンは、PC世界ではDOSの生みの親とも言われたが、この転教がモトでコロンデルと呼ばれた。


ゲーソロ・キ・ルドルフの希望峰発見
やはりガレージ諸侯のジタルリ・デ・サーチ公国ゲーソロ・キ・ルドルフは、8ビットOS教徒から絶大な支持を集めていたが、当時PC世界で増え続けるインテル教徒が期待したx86の教えを体言すべく、南方開拓を一人で進め、終に希望峰(CaPe of horN、略してCP/N)を開発した。当時の公開術は8ビット船しかなかったにもかかわらず、CP/Nは絶大な注目を集めたのである。
ゲーソロ・キ・ルドルフはこの開拓によって多くの南方の富を得て、大好きな双発飛行機を購入して宙返りして喜んでいた。しかし、アリャモンク式と呼ばれるビックブルーの守秘義務契約書に疑問を抱いた、ジタルリ・デ・サーチ公国はDOS教義の開拓に成功するが、インテル教徒のオープン都市ノベティアの総督レイ・ヨーダのフォースの戦いで負け、国土を征服されるなど、ゲーソロは不遇な晩年を送る事にった。後に通り魔とケンカしたという不幸な後遺症で不遇な生涯を終えた。


バイオス・ダ・ロムのAT回路開拓
エストリッケ公開王子によるユニバーサル基板とジャンパだらけの回路開発がIBMのボカルトン研究所で密かに進んだ。ゲーソロ・キ・ルドルフが発見した希望峰を越えて、IBM帝国出身のバイオス・ダ・ロムが終にカタコッタにたどり着いた。こうして、雨降って地固まるではないが、カタコッタ回路はその後の互換機諸国の標準的な16ビット船の回路となり、この地を目指して、コンパック、ASTなどの互換機緒族が黄金を求めて群がった。カタコッタはその後、マイクロソフト教のDOS教義の開発ターゲット拠点となり、東方ニチデン王国へ、マイクロソフト教徒の進出拠点となったのである。   


アスキス汗国の興隆
これらマイクロソフト教の布教は全てビルゲティウス三世に服従を誓ったケイ・ニシ氏率いるアスキス汗国のルートを通って交易する事が出来たのである。これによって東西交流のかなめとなったアスキス汗国は最大版図を得る事ができ、この極東のPCギョウカイでは珍しく上場する事が出来た。
当時、主な太平洋交易路はニホン航空ことJALであり、ニシ氏はJALのファーストクラスばっかり乗っていたと言われる。ファーストクラスの回数券はないかとスッチーを口説いたニシ氏の話は有名である。何しろニシ氏はJAL太平洋路線のファーストクラスを全て買い占めていたのである。したがって、全て東方ニッポンのPC緒族はニシ氏にお伺いを立てて、JALのファーストクラスに乗らざるを得なかったのだ。この行為は「ビンボー揺すり」で有名なビルゲティウス教皇からは厳しく咎められたが、つくづくニシ氏一族は飛び道具が大好きだったのである。
また、この頃、東方ニチデン王国は、いち早く、ニシ氏が独占するJALファーストクラスチケットを大量に購入し、極東岸を征服し、大きなシェアを獲得する事が出来たのである。


マザランが世界から一蹴
マザランは、こうしたIBM−AT互換機緒族連合に対抗すべく、X68000、MSX、アミガなどのPC緒族船団を率いて、ニチデン王国が巨大なシェアを持つ東方諸民族の制覇に出かけた。彼らはマザランの信念をに基づきながらも独自の文化を持ち、マイクロソフト教徒には決して混ざらない事を主張して、次々と船出をした。しかしお互いに歩み寄る事を知らない彼らはいたるところに迫り来るマイクロソフト教徒の待ち伏せに会い、苦難の末、世界中の根強いファンを獲得したがビルゲティウスの船団にフィリピンの海岸で一蹴されてしまったのだ。マザランの船団はここで瓦解し、唯一、アプル王国が派遣した船、リサのみが東方の足立区の自動車修理工場で、マザランの足跡を記す事になる。
しかし、マザランがPC世界を一周した事は、記憶すべき大成果であると後世の歴史家は指摘している。マザランの世界一周探検で、この世の中にはマイクロソフト教に染まらずに独立独歩で活動するPC緒部族の歩みを各地で発見したのである。


西氏のアスキス汗国
アスキス汗国のニシ氏一族はこれらマザランの船団を東方の港で優しく迎え入れ、自らが出版するゲーム雑誌に特集を組んだが、このハードウェアの違いを越えた行為が、ビルゲティウス教皇の怒りを受けた。また、アキテクチャ公開王子が開拓したカタコッタ行路はニシ氏の東西PC世界のJAL航空路線から外れており、西方PC緒族が相次いで極東を訪れる事になったのである。
これらの流通ルートを後に引き継いだのが、元々アスキス汗国に宰相として仕えたフルカワックや、ナルケ・モーロである。彼らは東方マイクロソフト教教会(M$KK)を笹塚に設立し、東方国民の教化に努めた。
これにより太平洋東西を結ぶJALの太平洋路線からニシ氏一族の姿は消え、代わりにフルカワックやナルケ・モーロの姿がJALのビジネスクラスに見受けられるようになる。
ビルゲティウス教皇から厳しいお咎めを受けたアスキス汗国のニシ一族は、その後出版のみならず、ハードウェア分野にも乗り出し、ヒサンなプロジェクトに手を出す事になる。
そのうち一つがネックレスジャンへの投資であった。ネックレスジャンはインテルのx86を偶像神と崇めるために、唯一マイコン神の生みの親、東方秋葉原のビジコン・シマを司祭として祭り上げたが、後に1990年代後半にアドバンスト・マーケッティング・デパートメントストア(AMD)に買収され、インテル教と対立するK6という破格の、世間では「安物」と批判されるが、優れたテクノロジに後に進化していくのである。

こうして、マイクロソフト教は東方ニッポン国に深く浸透し、後のドスブイ教へと発展するのである。



※このモノガタリに出る実名、もしくはどこかで聞いたような名称、略称は全て架空です。

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