カレーライスをつつきながらTさんはそう言った。カレーライスと言っても、駅の改札の横にある立ち食いカレーハウスとは違うのだ。ここは赤坂、ガラス越しに陽のあたる五月の中庭がはめ込まれた大画面テレビのようにレストランの中を照らしていた。
何しろ日曜日の赤坂のホテルのレストランなのだ。カレーといっしょに少なくとも5種類は超えるピクルスのビンが並び、足つきのゴブレットには金町浄水場の水道水ではなくミネラルウォータが入っている。
よそ向けの衣装を着たホテルの客が、ホテルに似つかわしくない迷彩ヤッケを着た謙作の少 なくとも一週間分の昼飯代をかけたホリデーランチサービスを受けていた。何のことはない、カレーライスはコーヒーよりは高いが、このレストランで一番やすいメニューであり、謙作の目にはそれ以外注文なんかできなかったのである。
カレーライスはちゃんと胃袋に収まり、領収書と引き換えに「外資なんてねぇ、できるかできないかじゃなくって英語がしゃべれるかしゃべれないかで出世が違うんですよ」とTさんはそう言って午後の赤坂の街に降りていった。
Tさんは外資系素材メーカーのITS担当者である。昨日、謙作と彼は終電過ぎまで、動かないものを動かそうとした。仕方がない、謙作はタクシーを拾って多摩奥地のねぐらに帰った翌日の事である。少なくともTさんはネクタイは締めていないわけで、ちゃんんとカジュアルスタイルを取っているトコロを見ると家に帰ったことは間違えない。
その日、少なくとも動かないものを動かした謙作は、ちゃんと日曜日の夕方の京王線の車内の人となることができた。
お客さんと自腹で昼飯食って、領収書を上司に握り潰された経験のある謙作としては彼の立場がうらやましくって仕方がなかった。カレーライスではなくってランチを頼むべきだったのかも知れない。領収書を紙入れに収めながらTさんはそれを望んでいたのかも知れないな、と謙作は思った。「4年もいると古株ですよ」外資系企業のITS担当者としてはごく当たり前の事なのだろう。彼とはその後いっしょに仕事をしたことがないが、風の便りでまだあのカイシャに勤めているらしい。
これから紹介するヒトビトはこんな外資系企業に勤めるヒトビトの話である。
N女史は謙作が勤める「アイランドコンピュータ株式会社」のすぐ近所にある外資系商社UジャパンのITS担当者である。年齢不祥、間違えてもトシなんか聞けない雰囲気というものを周囲360度に撒き散らし仕事をするひとである。ある日、システムが落ちたという。彼女ではない。彼女の上司からの緊急連絡だ。N女史は出張中ということで、暇な島謙作は早速洗濯屋ケンチャンのように「コンチハ、まいど!」とUジャパンを訪れた。
どう考えてもマザーボードが飛んでいるとしか思えない状況だったので、早速手配をした。翌日、N女史同席の上でマザーボードはメーカーのフィールドSEの手で交換されたのだが、ディスクアレィがおかしい。どう考えてもディスクも飛んでいるとしか思えない症状を見せていた。
症状はどう考えても、盲腸炎からひどく胃癌が進行したような末期的な状況となってきた。こうなったら諦めるしかない。
「私たちの仕事はドライバーでできることだけなんですよ」と主張するメーカーのフィールドSEと、真っ青に青ざめたN女史との間に、島謙作は立たされたのである。そう、メーカーのSEに責任はないのである。彼らはやるだけのことをやったのだ。中のデータを簡単に救い上げられる状況といったものはなさそうもない。
空調はよく効いていた。しかし空気が冷たかったのはそれだけではなかった。
「まず、被害状況を確認しましょう。明日できるだけの事をするだけです。じゃSEさん、明日交換のディスク持ってきてください。」、まるで炭坑事故で閉じ込められた坑夫の未亡人を慰めるように、謙作はプロフェッショナルの葬儀屋のようにてきぱきと指示をした。
「なんとかならないんですか」N女史はそう食い下がった。「今は何もできません」そう応えるしかないのだ。
そうなのだ。N女史はたった今、最愛のシステムの「ご臨終」を謙作に告げられたのだ。彼女の上司は、ケータリングサービス(出前と言っちゃいけないな)のピザを取り、明日以降の対策を検討していた。
つまり、謙作にとってはこのケータリングのピザはお通夜の夜食なのだ。ピザはすっかり冷めていた。
幸いなことに、システムは翌日、あっさり復旧することができた。後でN女史は島謙作にこう言った。
「あの時どうやって辞表書こうか考えていたんですよ」
Aさんはとある産業機械関連の青山にある日本現法のITS担当者である。青山でしかも外資系企業である。オフィスの女性はみんな驚くほど短いぴったりしたスカートを履いていた。
ひょうんなことから知り合ったのだが、そのカイシャが謙作の取引先の企業と合併することが決まった時はびっくりした。合併先はやはり外資ではあるが、日本資本も入った企業で本社は池袋にあり、生産部門は国内にも数箇所ある。
という事でシステムを統合するにあたり、Aさんと合併先のITS担当部門と、謙作との間で話し合いというものがもたれたのだ。Aさんは青山のオフィスと池袋のオフィスのシステムを両方担当することになったらしい。
その後、組織はうまく遷移したのだが、Aさんが謙作に電話する時、池袋からかける時と、青山の彼のオフィスからかけるときとの声色が全然ちがうのだ。
Aさんは青山にいるときは「いやぁ、しかたないなぁ、本社の連中が出てくるのはこっちの夜中だもんなぁ、帰れないなぁ」とひとしきりぼやきながら、謙作を「じゃぁ明日7時頃来てね」と優しく送り出してくれたものだった。
しかし、彼が池袋の新しいオフィスから電話してくれるときは全然話す内容が違うのだ。「いや、これじゃ困るんですよ。僕も困るけど、エンドユーザも困るんですよね。早く何とかしてほしいんですよ。何しろ島さんに全部任せてるんだからね。トラブルも見積もってもらっているんだから今夜中に何とかしてもらわないと、オタクとのとり引きは今後もできないと、まぁ僕は言えないんだけど、周りが言うんだよね」とAさんは「こまるこまる」を連発しながら声を潜めて言った。
そう、どう聞いても彼の発言はAさんそのものなのだが台詞は彼の上司のG部長が言った発言としか思えない内容なのだ。
G部長、Aさんの声色使うのうまいよなぁ。
Iさんはとある化粧品関連企業のITS担当者である。彼の上司のSマネージャは日本現法の社長に嫌われて、けんかした翌日にクビになった。Iさんのクビはまだつながっている。
彼はエンドユーザの面倒見は非常に良い。本当に尊敬したくなるくらいだ。しかし彼は基本的にイエスマンである。本社の方針に対してずいぶんぶりまわされているのだが、基本的にイエスマンである。
「ホントはこんなもの使いたくないんですけどね、向こうがこれやれっていうんでね」
Iさんはいつも謙作に対してそう詫びている。すべて作業と責任は彼が負っている。しかしわからないトコロは絶対に高飛車に聞いてこない。できるだけ彼の希望とするテクニックというものは協力したいと思う
「いやぁ日曜日もなくってねぇ、なに?島さんも残業代もらえないんだって?タイヘンだよね」
彼はそう言いながら、秋葉原あたりへ買い物でも行こうかという謙作を日曜日の午後のエレベータホールへ送り出してくれた。
外資系家庭用品メーカーのY女史も年齢不祥である。
少なくとも20代ではなさそうだが、謙作より年下、という雰囲気でもない。年齢不祥なのは、恐らく謙作の女性を見る目というものがないからだろう。
彼女は海外留学経験があるらしく、茶パツで英語はペラペラである。底抜けに明るいヒトであるが、トラブルの連絡を受けた時は全然要領を得ない。何しろ早口で要領を得ない事を次から次へとまくしたてる。結局30分電話で話した後、タクシーで10分とかからないトコロに出かけるはめになる。
でも憎めないのだ。「いや、アイツ社長なんだけどね。全然ニホンゴだめなのよ。ホント生意気でねぇ。頭に来るの、殴ってやりたい」
彼女は受付まで謙作を送って丁寧に例を述べ、そう付け加えた。
謙作の顧客のシステムの調子が悪いということで診断してみたら、しっかりディスクが壊れていた。交換するしかない。しかしメーカーのD社の代理店に頼むと1Gのディスクドライブが20万円するという、今時20万円も出せば、ディスクどころか本体が2台買えちゃう時代なのにだ。怒った顧客はやはりメーカーの外資系C社に見積もりを依頼した? なんとサービスマンが来て5万円で修理するという。
なんでC社なんだ?
ということで交換の日、やってきたフィールドSEはD社のH君だった。そう。D社と言えば業界人で知らない人はいない。外資系C社に吸収された大手外資系メーカーなのだ。まぁ、イニシャルとはいえD社とC社と言えばそのまんま。想像が付かない人なんていないよな。
それより、H君を見るまで想像が付かなかった謙作が悪いといえば悪い。
H君はいまだ元D社の新宿区内にあるサービスセンターにいる。彼は以前よく「静電気マン」こと島謙作が壊したマザーボードを交換にアイランドセンターに訪れた事があり、よく知っている仲だったのだ。
一応システム屋の島謙作に対して、H君は「いやぁ、システム屋さんはいいですよね。ボクらエンジニアじゃなくってチェンジニアだもん」彼は謙遜してそう言ったものだ。「ねぇC社のコンピュータも修理するの?」との謙作の問いにH君は答えた「いやぁ、あれC社の資格がないと修理できないんですよ。C社ってまぁウチのカイシャなんですけどね」
でもやはり彼はプロだ。「いやぁ次は渋谷なんですよ」とマザーボードの入ったカミブクロを二つぶら下げて、炎天下、雪カ谷大塚の駅に向かうH君の後ろ姿を見送った。
M君を見かけたのは幕張メッセである。かつて島謙作がプログラマをやっていたころ、M君は謙作の出向先のマイクロコンピュータ系ベンチャー企業T社の新入社員プログラマだった。何しろM君に任せれば安泰だ。謙作が鼻くそをほじりながら書いたコードのバグを次から次へと再現させてくれたのだ。その後、謙作はプログラムを書くことに飽きて、M君も野郎ばかりで、バブル崩壊後はひどく株価が低迷していたT社を退職し、エンジニアリング部庶務担当紅一点N嬢を嫁さんとしてかっさらい退職したという。
「いや、給料は変わらないんですけどね。ボーナスはいいですよ」再会した当時のM君は「嫁さん元気か?」という謙作の問いに顔をほころばせて答えた。
M君が突っ立っていたのは外資系ソフトW社のデベロッパー向けのブースである。何しろ当時は泣く子と地頭を黙らすくらい勢いのあるW社である。その後、M君とは毎年6月の幕張メッセで会っている。しかし、今年はいなかった。ここ数年あんまり景気の良い話を聞かないM君のW社である。彼の勤めている(いた?)会社のウェブページを見ると、従業員は1/3くらいに減っている。
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