こんなエイプリールフールの冗談メールに「島さん、冗談きついっすよ」とまじめに応えてくれた取引先担当者がいた。なにしろ主任・島謙作というやつはこの日は何かしらしなければ気が済まないのだ。天から大王が降ってくるところが、退職したのがこっちではなくって、先方から「退職することになりました」と言われた時にはひどいショックを受け、こっちはひどく落ち込んだものだ。
そりゃそうだ、こっちは冗談ばっかりよこして、ちっとも注文書をよこさないやつなのだ。恐らくレストランのまじめなウエィトレスから一番嫌われるタチなのだろう。それでいながら水ばっかりお代わりしている。多分世の中でいちばんイケスカナイやつなのだろうな。
学研の小学四年生かなにかでこんな記事を読み、二十何年間すごしてきた。子どものころにはそうか、俺は三十ウン才でこの世から消えてなくなるんだよな。なんて真剣に考えてきたおかげで、どうやら21世紀のワタクシという作文が全然かけなかったような記憶がある。来年の正月はどうする?恐らく担任もそうとうひねくれた奴だと思っただろう。そりゃそうだ、ワタクシ1999年の7月でこの世の中からおさらばします。なんて書いちゃったんだもの。
ところが、1999年の7月は異常に仕事が忙しく、気が付いたら8月になっており、なぁんだ、というのが今の気持ちであるが、正直言って21世紀を迎えるという気分がしない。そう、なにしろ21世紀との境目にちゃぁんと2000年問題というやつが控えているのだ。
「いゃね。うちね。来年の正月は待機なんですよ、島さんのトコロどうなの」と顧客に言われてギクリとした。多分、電話待機だよなと、ウスラウスラ心の準備といったものはちゃんとしていたのだが、いざ面と向かって言われると正直言って答えにつまってしまう。21世紀のワタクシなにしろ、恐怖の大王と違って、こっちはチク、タク、ポーンで「何か」が発生してしまいそうな雰囲気と言ったものを世の中に充満させているのだ。
1999年の7月に恐怖の大王が降ってくるから、ではすまされない「凄み」といったものがあるのである。あっちは無事一ヶ月なにもなく収まったがこっちはポーンとなった瞬間に、あれこれ嫌なモンダイというものを周囲に吐き散らしそうな雰囲気なのだ。
そうは言ってもそれで間違ってロシア戦略空軍の大尉なんかが間違ってボタンを押してしまうとか、ボイジャー2号がいきなり地球にまっしぐらに突入する進路に変わってしまうとか、そんなことを心配しても仕方がないのである。
杞憂とはまさにこれのことなのだ。
とは言え「いやぁ正月はカイシャに居ますよ」なんて言ってしまうのも問題なのだろうな。「きっと何かが起こる」という不安感だけを煽って、システム担当者はワッセワッセと掛け声をあわせて来年の正月はカイシャにいるのだぞ、きっと。そのうちエンドユーザも自分のデータがなくなっちゃ困るとばかりにカイシャに駆けつけたり、社長はもう心配で心配で仕方がなくカイシャにきちゃったりして、おかげで普段は初詣客しかいない、朝9時の山の手線なんかが混雑するのだろうな。
それでもって、何かが調子悪いなんてことになったらさぁ大変だ。「てぇへんだてぇへんだオヤブン」なんて事になってしまうのかもしれない。この勢いでコンピュータはひっくり返り、ちゃぶ台は裏返しになり正月料理は台無しになり、夫婦の間には亀裂が入る、なんて事にもなりかねない。
うーん困ったものだ。
ということで21世紀のワタクシ主任・島謙作はまったく予想が付かないのである。大体自分が年寄りになる姿だってまったく想像が付かずにすごしてきたのだ。この責任どうとってくれるんだ!バンバン!なんてテーブルを叩いたって仕方がないのだが、今勤めているカイシャでさえ、入ったときには3年勤まるとは思えなかった。戻る結局カイシャを辞める勇気だとか、独立して城を作るんだぞという気構えだとか、「できちゃったの」と言われたときのオトコの甲斐性だとかもなくこのまま21世紀を「余生」としてすごしてしまうのだろう。
結局現状を変えるために自分を変えようとする奴が偉いのだよね。