02/07/23
タバコを止めた。あ、まだ止めちゃいないな。今日も2本も吸ってしまった。2本もだ。
「アナタのタバコを吸っている時の横顔が好きなの」と女は言った。「でもタバコを辞めて欲しいの」
そう言われる日まで意地でもタバコを止めるまいと思って二十数年、キャメルひと筋一日一箱を灰にしてきた。キブンはすっかりフィリップ・マーロゥだ。いや、すっかりそのキブンだった。
たとえ、息絶え絶えの風邪引いて、熱が40度ありそうな日も、雨の日も嵐の日も、メシくう金がなくて280円しか財布にない夜もどんな日も這ってでも自販機に通い詰め、タバコは吸いつづけた。友人にテリーレノックスがいなくても、ギムレットの代わりにライムソーダの缶チュウハイ、ライウィスキーの代わりにニッカの水割りを飲んでいてもだ。「アナタのタバコを吸っている時の横顔をずっと見ていたいの」そんな島謙作が終にタバコを止めた。いや、ただ今、禁煙努力中と言ってよろしい。まだ、完全に脱煙しきれていないのだけれど。
何しろ、たまたま、始めた仕事が学校の仕事だ。高校生がうじゃうじゃいる所で隠れてコソコソタバコを吸うわけに行かない。こりゃイカンなと決心して禁煙補助剤を購入して、試しに一粒口に入れると、どうもいけない。タバコがすっかり不味くなってしまったのだ。
何のことない、とにかくタバコが美味くないのである。
ということでタバコを止めている。
何しろキャメルというタバコのブランドはあんまりメジャーじゃぁない。少なくとも日本ではだけれど、洋モクとしてはあんまりその辺りじゃ売っていない。以前はレイノルズブランドだったんだけど、数年前にJTが販売権を獲得してしまってから、すっかり日本のブランドになってしまっている。
オトコは、左のポケットから、クロレッツの包み紙とコンビニのレシートと一緒にキャメルの紙パックを取り出し、タックスシールを破って右手の中指で無意識に中を探る。最後の一本が指に絡みつく。捻じ曲がってシワだらけの一本を引っ張り出して口に咥えると、右のポケットから、五円玉と一緒に湿ったドトールの紙マッチを見つけて、必要なモノだけで火をつける。「今日でオレもお終いだぜ」ということで最後に残った一本のタバコのケムリを、夏の夜空に吐き出したオトコは駅前のタバコ屋のオバチャンに
「キャメルをくれ」とハンフリー・ボガードのように言う。
「ソフトかい、ハードかい、マイルドかい?」
どうせここはロスアンゼルスではなく日本の東京のそれも郊外の小さな街だ。小鷹信光の翻訳のように「キャメルを一袋くれ」なんて台詞はやっぱり平凡なサラリーマン、主任・島謙作には似合わないのだ。「オトコはハードじゃなきゃ生きては行けん」と彼のチャンドラ大先生はのたもうたのだが。「ゥ、ン、あー、ゥート、あ、ソフトパックのフツーのね、箱入りしかなければそれでもいいけんどね」ということで、駅前のタバコ屋のオバチャンに自分の好みを刷りつけるまで十数年かけてきた。都内の出回り先で、キャメルの自動販売機がどこにあるのか位は全てアタマに入っている。高田馬場の駅前のタバコ屋には両切りだってある。
何しろアメリカタバコのフツーのだ。ニッポンのハイライトくらいにメジャーでハードなタバコなのである。
以前、イナカでご年配のヒトとと酒を飲んでいたとき、キャメルを取り出したら。
「いんやぁ、懐かしいナぁ。よく進駐軍に貰ったよ、そのタバコ」と言われたし、去年、米国人のヘビースモーカと一緒に仕事したんだけど、島謙作がキャメルを取り出すと
”Oh , CAMEL.....!”などと、先方の奇妙な好奇心と尊敬を勝ち取ったものである。つまり、キャメルはそれくらい、フツーのタバコであるし、アメリカンオリジナルなのである。
「アナタのタバコを吸っている時の横顔が好きなの」 と女は言った。「でもタバコを辞めて欲しいの」
そう言われる前に島謙作は禁煙補助剤に手を出したのである。
ところで、この種のクスリを使うと、奇妙にタバコが不味くなるのだけれど、やっぱりタバコを吸いたいと思うものである。その誘惑が実に厳しいし、どうしょうもなく手持ち無沙汰になるのだ。
なんと言っていいのだろう。ちょうど、女の子に振られてしまったキブンに近いのかも知れない。セックスだけは欲望が絶たれてどうもキブンも湧かないし、勃起もしなし、射精もできそうもないのだけれど、やっぱり女の子を一晩抱いて過ごしたいような、あるいは毎晩電話していた電話番号だけは指が覚えて、暗闇でもそのダイアルを回せるのだが、「もう電話してこないで」と言われた時を思い出す若い頃の深夜の、そんなキモチに近いのかもしれない。
そんなキブンがふと湧き上がる。
「うーん、そりゃキャバクラ行った後のキブンかもしれませんねぇ」と、同僚Aは言った。うーん、良くわからんが、そうなのかも知れない。確かに家を出るときにタバコとライターを探す所作だとか、夜、最寄の駅で改札を出たとき、明日の朝、タバコを買うべきか、それとも今買うべきかといった問題だとか、電車を乗り換えるとき、無意識に喫煙所を探そうとする習慣だとかが今、奇妙に懐かしいのだ。
謙作が高校時代に付き合った女の子はタバコを吸わなかった。彼女がどこの田舎の町にでもある喫茶店で謙作に何か重大な告白を告げようとしたとき、彼女は小さなカバンから封を切っていないショートホープを取り出して火をつけた。最初の一口で火を付けられたショートホープはそのまま、小さな喫茶店のテーブルの灰皿の中で無言で燻り続けた。
次の一言を言うとき、彼女は灰皿で燻っているショートホープを指先で取り上げて、もう一度唇でフカした。言葉になっていなかった。タバコを挟んだ細い指が宙を舞い、テーブルの上の灰皿を探しているとき、タバコの火と言葉の先っちょがブルブルと小さく灰皿の上でコキザミに揺れて落ちた。
怖くて彼女の目は正視しなかった。タバコの火と黒い灰皿に落ちた灰が全てを語っていた。
「短い希望」と名付けられたタバコは、二度と次のコトバを探している彼女の唇に運ばれることなく、灰皿の中でもみ消された。ついこの間も、昼メシの後、無意識に内ポケットを探っていたら、「あ、島さんタバコ探してんでしょ」と同僚Bに言われてしまった。確かにその通りなのである。
「あ、いやね、オレね、今ね、タバコ止めてんの...」どうもそう言いふらすしかないのだが、
「きゃ、島さん、それステキぃ。」ふと最近若い女の子にそう言われた、一体誰に言われたのだろう。どうも思い出せない。あ、そうか、近所のパーマ屋のおねぇちゃんだ。キャバクラのおねぇちゃんじゃないぞ。
「アナタのタバコを吸っている時の横顔が好きなの」 と女は言った。「でもタバコを辞めて欲しいの」
そう言われる前に島謙作は禁煙補助剤に手を出したのである。決してパーマ屋のおねぇちゃんにノセられた訳ではない。
そして、また、そういう恋をしている訳ではない。