春の嵐が通り過ぎた。道端の植え込みの芽も膨らめばコートを脱いだ若い娘たちの軽くなり始めたスカートを膨らませる。春は素敵だ。季節の始まりを感じさせてくれる。冬の始まりは秋の終わりだが、春の始まりは何かの新しい予感の季節なのだ。戻る
とは言っても、重たい皮のコートを汗かいて着込んだ島謙作にとって別に去年の春とは変わらないいつもの季節の変わり目なのかも知れない。あとはいつこのコートを脱いで出勤する決心がつくかである。駅前のタバコ屋の自動販売機で千円札を投入し、シャンペンゴールドの500円硬貨と幾ばくかの小銭を小窓から拾い上げた。小銭を上着のポケットに放り込み、タバコのパッケージの封を切り、その代わりにポケットから定期といっしょに引っ張り出したドトールの一本だけ残った紙マッチで慎重に祈るように火を付ける。まぁいいさ、春なんだから。春の嵐が最後のマッチの残り火と灰色の雲を吹き飛ばし、微かな紫煙は空に溶けていった。春霞のまぶしさが目を焼く、ちょっと暑苦しい。おまけに花粉が空を飛んでいる。カルキの混じった水槽に泳がされた金魚の気分だ。まぁいいさ、今日も仕事だ。外回りの悲しい宮仕えの身の上、右手に持ったバカでかカバンを鞄ダコで硬くなった左手に持ち代えると、カカトの磨り減った靴を引きずるように1200万人の他人が住む街に溶けていった。地下鉄の乗り換え駅でポケットの中身をまさぐり、140円を取り出すと日経を買う。すでに電車の中でポケットの小銭を数えている。乗り換えのわずか数十秒の間に着実に日経を購入するためのテクニックなのだ。毎日痛勤していればそんな技は自然と出てしまう。しかしいったいこの込んだ電車のどこで読めというのだろう。不思議なもので、昼間の空いた電車の中でシケたネクタイをしていても、日経を読んでいるやつがいるとちゃんとしたまともなビジネスマンに見えるから不思議なものだ。まぁいいさ、きっと何かの魔法なのだろうか。この間、いかにも就職の説明会かえりといった雰囲気のグレーのスーツを着込んだ若い女の子が電車の中で足を組みながら日経を読んでいた。若い肌に化粧が薄い。肩に触れるくらいの髪の毛はキチンとゴムで後ろにまとめている。普通のストッキングに黒い靴。黒い大きな取っ手がついた鞄を持っている。おまけにステンカラーのベージュのコートときたもんだ。
もし島謙作が人事の採用担当者だったら、小難しい質問にちょっとばかり小賢しい返答でも返ってくれば、その姿を見ただけで採用してしまいそうだ。たとえその女の子が3年後にどんなに厚化粧を施すようになり、おそらくハナコと赤川次郎しか読まないだろうと予測がついたとしてもだ。これだから春は楽しい。少しは明るい気分にしてくれるというものだ。昼は余裕のよっちゃんで定食屋にでもと思ったところだが、いろいろ時間の都合で結局は駅の構内のテンプラ蕎麦だ。いまどき立ったまんまで380円もとるファーストフードは駅ソバ屋くらいなものだ。松屋だって、マクドナルドだって、ちゃんと座れてこれより安い。急ぐので仕方がない。まぁいいさ、食券の自動販売機にポケットの500円硬貨を放り込むと、そのまま返ってきた。もう一度スリットに放り込もうとして気が付いた。春だからといっても別に何も変わらない。給料も身分も10年前と大して変わらない。 もし去年と変わったことがあるとすれば、その間に誕生日を迎えて単に歳をひとつ余計に取ったということに気が付くだけだ。気分はずっと冬のまんまである。冬という季節が終わったからといって安心はできない。世間は不況の嵐とリストラの雨の季節だ。
500円は両替しろということらしい。仕方がないので千円札を放り込むと500円硬貨とその他小銭と食券が帰ってくる。500円硬貨は受け付けないくせに、しっかり釣銭で返してくれる。いったいどういう神経しているんだろう。駅ビルのトイレに入ろうとすると「このトイレは寄付によって成り立っています」の看板。まぁいいさ、ポケットから100円を出して中に入る。100円払っていいかげんなティッシュペーパー買わされるJRの駅便よりよほどいい。ちょっと古いが清潔感はある。コートを脱ぎ忘れ出世を忘れたサラリーマンにとって、35歳を過ぎれば春には何の価値もない。あとは給料が下がるだけ。残りの20数年はサラリーマン人生にとっては余生みたいなものだ。
客との与太話を終えて地下鉄の駅で電車の切符を買う。さっき自動販売機から帰ってきた500円硬貨を放り込むと拒否された。どうも具合がよくない。さっき日経を買ったせいで、ポケットには500円硬貨と幾ばくかの10円硬貨と、出掛けの途中で本屋で買った文庫本(消費税別)のおつりとなってポケットに入り込んだ一円玉しかない。カイシャというヤツは決して勤め人にとって暖かくて居心地のよいものではない。昨日まで生めよ育てよとばかりに人間に投資していたかと思えば、明日は知らん振りをするものだ。もし勤めている理由があるとすれば、少なくとも次の仕事を見つけるのがやや面倒くさいという理由だけである。
まぁいいさ。内ポケットから紙入れを出すと、最後の福沢諭吉が13回裏のリリーフエースのようにえらそうな顔をして登場してきた。万札の使える券売機は右端にしかない。なのにそういったところに限り、人が並び、平気な顔をして100円硬貨を使って160円の切符を買っている。
もし、月曜日にご機嫌な顔でご出勤できたとすれば、それだけの理由しかないのだ。電車の乗り換え駅で雑誌を買う。ジャケットの左ポケットの中のミステリーはこの10分間で読むにはちょっと重い。今日は何の販売日だったけ?300円はすぐに出てきた。いつもならさっさと”不帰社”の連絡をいれてカイシャのことなんか忘れてしまって京王線の車中のヒトとなるところだが今日はそうも行かないらしい。まぁいいさ、ここんところ3日間”立ち寄り/不帰社”だ。たまにはちゃんとタイムカードを押すのもいいのかもしれない。まだ、西の空には臙色の春の残り火が街のスカイラインを彩っている。ちょっとは忠誠心のあるところを見せるためにも、ここは午後7時の職場にもどって、ウィークリーのレポートを書いたほうがよいのだろう。カイシャには忠誠心はなくても、自分の仕事には忠実でありたいというのはやっぱりちょっとばかりハードボイルドミステリーの読みすぎだろうか。
とは言え仕事は仕事だ。ちょっとオフィスによってたまっている仕事を洗濯物のように手際よく片付けたほうがよいのだろう。おそらく今日も終電に近い時刻。まだ駅前の自動販売機は空いているかもしれない。
まっとうな男なら、電車を降りて自動改札を抜ける時、はて今日の終わりに何を一杯引っ掛けようかと考えるものだ。腹も減っているし、ベッドサイドに放り出したボトルの底にどれくらいの酒が残っているのかを必死に思いだそうとする。シンナー吸いすぎたガキの脳みそが接着剤をかけられた発泡スチロールみたいにとろけるように、肩の上に乗っかった記憶装置の中身がほとんどアルコール中毒の一歩手前だとしてもだ。たとえ昨日の夜何を食べたかを思い出せなくても、昨日の酒の残りがどれくらいあるかを覚えているのが、本当の酒飲みの姿である。
駅前の酒屋は半年前にコンビニエンスストアになった。自動改札を抜け、最後のタバコに火を付け空を見上げる。オリオン座はもう見えない。空になったタバコのパッケージを鞄ダコだらけの手で握りつぶすと、駅前のタバコ屋の自動販売機に向かう。ポケットに手を突っ込むと、中から小銭を取り出した。新旧2枚の500円硬貨が出てきた。あとは百円硬貨1枚と10円と1円硬貨が数枚。ポケットの裏側にをひっくり返しても以上でお仕舞だ。ポケットに穴なんぞ空いていない。腹が減った時に、素敵なイタリアンレストランで、最後のデザートが出てきた時に、ご馳走さままた今度ね、といわれた気分だ。それが素敵な女の子とのディナーだったとしたらだ。もっともそんな経験は、三流サラリーマン島謙作にはまずめぐり合えない。ため息といっしょに、紫煙を吐き出すと、わずかにのこった千円札を自動販売機につっこみ、ご愛用のタバコを購入する。釣銭になぜか500円硬貨が混じっている。真っ暗になって人気のない一日の終わりの駅前通りをとぼとぼと歩き始める。実力も価値もあるのに、なぜか「使えない」と烙印を押された500円硬貨のように、35歳過ぎればサラリーマンの人生なんて余生みたいなもんだ。
明日の朝はコートを脱いで出かけるべきなのだろうか?まぁいいさ、春なんだからな。