午後9時の京王線、ホームめざしてバカデカイ通勤カバンを抱え、よたよたと駆け下りるオトコひとり。朝から曲がっていたネクタイはすっかり緩み、第一ボタンの取れたワイシャツの襟元からHenesのコットンシャツがのぞいている。通勤快速の発車のベルは既に鳴り終わり、階段のオドリ場から見えるクリーム色の電車のドアは閉まった後だった。彼の名前は島謙作、某中小企業に勤めるどこにでもいるサラリーマンである。
おおよそ、新宿駅で京王線に乗り換えるときは沿線住民の誰だって、ホームの時計や腕時計を眺めてはソラで言える電車の出発時刻を確認してはどの電車に乗ろうかと考えるわけである。08、28、48分は通勤快速、00、20、40分は特急電車だ。もう少し早い時間帯ならばハシモト行きという選択があるのだが、こればかりは乗り換えの都合であんまりお勧めできない。もっとも橋本行き特急電車は午後7時代で終わり、島謙作のような多忙で給料の安い残業目当てのサラリーマンが乗るような電車じゃない。
乗り換え電車から降りホームを駆け下り、JRの構内を早足で掛けぬけ、自動改札機を抜けるとすでに通勤快速の出発のベルは鳴りはじめていた。通勤快速に間に合うかと思ったが、こうなれば次の特急だ。月末でしかも金曜日、まだ夜は早いほうだ。大部分の沿線住民にとってはお楽しみはこれからなのだろう、まだ意外と電車を待つ人の列は短い。次の電車なら座れるかもしれない。京王線3番ホームに降りると、カバンを左手に持ち直して、ホームを歩き始めた。
一歩家を出るとオトコには7人の敵がいるという。まずいきなり朝の電車でだ。途中の駅で思い切り後ろから押してきた高校生に頭にきて思い切り足をフンズケて粉砕してやった。まずは軽ぅーく一勝。
次にカイシャに朝礼中に出勤してきた島謙作を睨みつけたボスと闘う。「最近遅刻が多いやつがいる」と思い切りイヤミな名指しのメールを部内のメーリングリストにおくってきやがった。だから何だっていうんだ。「最近残業が多いやつがいる」と切り返してやった上に、ヤツがトイレの個室から現れたところとばったり顔を合わせてしまった。「ちゃんと家でして来い。さもなきゃオレみたいに途中の駅で用を足して来い」って言いたいが、悔しいけど上司だ。仕方がないイーブンだ。やがてどうやってこのカイシャにもぐりこんだかのだか、それとも人事の目がフシアナなのか、なぜか彼の下について仕事をしている新人Sがいる。やつはとても素敵な性格で、三陸の漁港では柿で秋刀魚を釣るらしいという話をすると妙に喜んで信じてくれる。まだ、本当だと信じているらしいのだが、できの悪いことには変わらない。あまりにもしつこく質問ばかりして要領を得ない。「オレの靴のニオイ嗅がせるぞ」と脅したらすごすごと退散しやがった、これで二勝一引き分けだ。
次に一番嫌いな客からクレームの電話を受け付ける。散々な野郎だ。コンピュータのエンジニアとできの悪いソフト会社のヘルプデスクとを勘違いしている。思い切りアタマにきたが、確かにこちらのミスだ。ここは素直に負けを認めよう。これで二勝一敗一引き分けだ。
昼飯は近所の夜は飲み屋で昼は飯屋になる「采屋」の定食だ。後からきた隣の紺色スーツ族のすき焼き定食より、こっちのサバ焼定食の方が遅く届いた。ちょっとヤな気分である。これで二勝二敗一引き分けだ。午後は以前からトラぶっていた客先で仕事だ。どうも、あれが悪いこれが悪いと言っている間に直ってしまった。どこをどう直したんだか全然見当がつかないがどうやらちゃんと動いてしまった。ついでにログを見ていたら結構危ないトラブルの予兆まで見つけて対策してしまう。調子いいぞ。あれほど陰険な客なのに気味が悪いくらいお礼を言われて、おまけに三時のおやつとばかりに饅頭までせしめてしまった。甘いものはあまり好きではないのだがまぁ仕方がない。これで三勝二敗一引き分けだ。
今日はまだいい。勝ち越せそうな気分だ。しかも不帰社の連絡に、「いやぁ別になにも連絡ないですよぉ」というSの一言で帰りの新宿駅へと向かう。
ところで我らが京王電鉄で使用する4ドア車ではドアとドアのスパンに7人がけのシートが配置されている。これが6個、つまり42人分、さらに車両の結合部に4人がけのシートが車両の両端に4つ、16人分、つまり一台の車両には合計58人の幸せな顧客というものが存在するのである。掛ける事の10両編成で一編成あたり580人が座れる事になる。ただし、先頭車両の端のドアにはシートがない。マイナス8人、両端で16人、さらに8号車と9号車は先頭車両を突き合わせて編成しているからここもマイナス16人、最近の特急電車なんかは車椅子用のスペースがあり、ここもシートがない。マイナス4人。とはいえ500人あまりの「幸せなヒトビト」と言ったものが家族の待つ我が家の最寄の駅まで座って行くことができるのである。ついでに乗車定員というヤツなのだけれど、あれば「座れるヤツ」と「何かに捉まれるヤツ」の合計だそうだ。まぁ座れる人間の倍くらいと計算すれば、定員150%の「もう身動き取れないもんね」の朝のラッシュアワーでは一編成あたり1500人の客がオイルサーディンみたいな気分でブリキのケースにオリーブオイルに包まれて収まっていることになる。
朝のラッシュアワーは2分に一本くらいの割合で電車が新宿駅に到着するわけで、そうすると京王電鉄が新宿に一時間あたり30本分の電車を運行したとして約45,000人の乗客が朝のラッシュアワーの一時間に集中するわけだ。これが京王電鉄の輸送力といったものなのだ。どうなんだろう。決して多いとは思えないのだ。まぁ、他にも地下鉄直通電車だとか、井の頭線で更なるフィットネスに励むヤツもいるのだからまぁ一概には言えないのだろうが計算上はそう言うことになる。
このままでは計算は複雑になるので、もう少し簡単にしよう。一両あたり58人、ドアは4つ、ひとつのドアあたり15名弱のヒトビトが新宿駅から幸せな数十分間をすごすことができるのである。三列乗車をきっちり守れば4列目と5列目あたりがひとつの闘いの場となるのである。昔、予備校時代に代ゼミの模擬試験を受けていたころ、どこまでが合格ラインなのかを計算した結果なのである。つまり1列目と2列目は楽勝で「合格ライン」である。よほどヨボヨボの年寄りかよほどのケアレスミスをしない限り、まず「合格確実」ってやつなのだ。もっともヨボヨボの年寄りを突き飛ばしてさっさとシートに腰掛けてしまうようなのは「おばさん連中」しかいないだろう。いくら京王沿線の住民が狂暴だと言ってもそれくらいの「常識」は備えている。
3列目4列目は「充分合格ライン」である。まず、よほどの事がない限り「座れない」という悲劇には遭遇しない。
ただし、だ。時折見かけるのだが、若いオネーさん連中で集団で話に夢中になり、後ろからドツかれ、グループが右往左往しているうちに、一人が座れないという悲劇はたまぁに見かけることがある。つまりは「充分合格ライン」なのであるが、「ケアレスミス」には要注意なのである。さて4列目、これも結構きわどい。このあたりは充分な判断力と一人身の身軽さが身上である。万が一複数でなんか乗り込もうものならば結構な確率で一人はあぶれてしまうのだ。もし慣れたオトコ二人で4列目から乗り込む場合は、電車のドアが空く間際にすばやく目配せをして「右?」「左?」の合図をしてしまうのである。そして先に奥にたどり着いたヤツなんかが手前のシートに腰を落としてすばやく更に奥へと腰をずらすのである。そうすれば後からきたヤツの席を確保できる。場慣れしたヤツのチームプレイというやつだろう。往年のセナとベルガーのファイナルチェッカーみたいなもんだ。
さて問題は5列目である。数字ではこの列は「合格ラインぎりぎり」である。運良く前に並んでいる連中が特別にトロいやつだったりして、集団で右側に行ったりなんかすると、すかさず左のラインを攻めたりなんかするような果敢なアタックを要求されてはじめて「今夜の至高の数十分間」を味わうことができるのである。素早い判断力と幸運が要求されるきわどいところである。
6列目はもはや運頼みである。代ゼミ風に言えば「更なる努力を要する」ところだろう。思い切り態度の悪い悪ガキの目の前に立ってケツの間のわずかな隙間を睨みつけるだとか、たまたま座ったんだけど、急にトイレにいきたくなりそうな腹の弱そうなやつの目の前で東スポを広げて立つしかないのだ。
そして7列目以降、これは「志望校変更の要あり」といったところだ。どうしても座りたかったら次の電車を待ったほうがよいのである。
さて、午後9時の京王線3番ホーム、通勤快速電車は逝ってしまった。あとは次の特急電車を待つ人々が3列になって並んでいる。バカデカカバンをぶら下げた島謙作はさっきカイシャの近くの駅で購入した週刊誌を小脇にかかえ、更なる傾向と対策を練るのである。あの列は強烈なオバサン連中が観劇の後なのだろうか、集団で群れている。別にどうでもいい事なのだが、やっぱりうるさいのは適わない。次の車両を待つ列はオヤジ達ばかりだ。しかし、この競争社会をスルドク生き抜いてきた方々ばかりなのだ。まぁ言わば通勤のプロ達だと申し上げて構わない。日刊ゲンダイを持つ手がさりげない。決して侮れない連中なので、これもパス。だいいちまわりがオジさんばかりじゃつまらない。次の車両も同じくパス、戻るそうするとあった!オヤジ二人が一列目、ちゃんと3列乗車にならずに日経の夕刊なんかを広げている、確信犯的な「合格狙い」でるのか、「この列には3人も並ばせんもんね」的な不適な態度で新聞を広げている。次の列では若い娘が3人ほどぺちゃくちゃやっている。完全にスキがある。その後ろにカップルが二人いちゃついている。4列目はオヤジが3人正しく列を作って夕刊フジなんかを読んでいる。タブロイド紙を広げる姿はさりげないが、常に周囲に視線が泳いでいる。「充分合格ライン」を狙っている。そしておばさん一人とカップル。多分おばさんは必死の突撃をするだろう。死ぬも生きるも、京王線の午後九時はオマハの海岸みたいに情け容赦はない。この列に並べば6列目であるが、ここでは競争率がかなり低い、あんまりまわりでうるさそうな乗客はいない。これは至高の数十分をすごすには最適な位置であると言える。
そういう素早い判断を下した、島謙作はさりげなく列の後ろに並んで、カバンを足元において「フウ」なんてため息をついたりするのである。であるが、行動は依頼者に会う前のゴルゴ13みたいにさりげなく観察している。左右への判断を素早くするためには3列乗車の真中がいい。特に2列目のねぇさん達と3列目のカップルの動きに要注意なのだ。ヤツらがどっちに動くのか、そのパターンにしたがって素早く判断を決めなければならない。
しかも、左右の別の列の動きにも充分注意を払う必要だってあるのだ。もし、右の列の先頭のデパート帰りの学生風のグループが左に動いたら、素早くその判断でこっちも左に動かなければ勝利は危ない。そのあたりの「周囲の状況」といったものを一瞬のうちに判断し行動する。これが島謙作この15年間のサラリーマンの「生き馬の目を射抜く」知恵と経験というヤツなのである。
ふと右を見るといつの間にやら中間管理職の悲哀と定年まであと5年だかんね、といったオヤジがにじり寄ってきた。さりげなくコートのスソなんかを直しながら電車の時刻表示盤なんかをしきりと眺めているフリをして、「接近中!」のピリリピリリという表示板をチェックしている。そうこうしているうちに電車はガラガラの上りの乗客を乗せてギシギシとホームに滑り込んできた。左を見ると若さの中に如何にも「疲れています」って顔ではあるが目だけはランランとスキを伺うカジュアルオフィス帰りのオトコがショルダーバックのストラップとパソコン雑誌を握り締めている。後ろを見るといつの間にやらにじり寄ってきたオバさん二人連れ、既に「いやぁ、混んでるわねぇ、座れるかしらねぇ」なんてワシラサラリーマンなら当たり前だというこの日常の状況に早くも有り余った戦意を剥き出しにしている。
そうか、どうやら今日の最後の7人目の敵はこいつらだったのか。電車はガタリとホームに止まり、降車ホームのドアが開く。先頭のオヤジ二人が早くもドアににじり寄る。前の方のお嬢さんたちはまだおしゃべりを止めない。電車の中では学生風のイネムリ男が、「アレマ、終点か?」といったふんいきでヨタヨタと立ち上がる。いよいよ闘いは始まるのだ
「はい、山側オーライ」
ホームのアナウンスが流れる。そして3番線のドアは開いたのだ。