月曜日の朝
2000/2/12

銀鱗は腹を引き裂き人を吐き出した。人気のない降車ホームはエアブレーキの深いため息の後、人の群れに満ちた。静かだったホームは人の靴音に溢れ、見えない水の流れに従うように、改札をぬけ、通路へ、階段へ、地下鉄へと流れていく。

昨日の夜、「世界で一番君が奇麗だ」と囁いた男も、この月曜朝の大都会では何百人もいることだろう。囁かれた女も同じ数だけいるはずなのだ。少なくとも彼らにとっては特別な朝を迎えたのかもしれない。
あるいはこの人の群れの中に、昨日自分の母親の葬儀を終えた男がいるのだ。おそらく世界で一番不幸な男だと考えながら、改札に向かって歩いているのだろうが、昨日自分の母親の葬儀を終えた男なんぞ、ビジネスライクな葬儀屋のようなこの朝には珍しくもなんともないのだ、この都会では。
とにかく、彼らにどのような事情があろうとも、彼らが月曜日の早朝にホームに吐き出された理由は一つしかない。

これから会社に行くのだ。

魚卵にどのような事情があろうと、そのまま孵化水槽にほうり込まれるように、月曜午前8時の採卵場、新宿駅にはさまざまな事情を抱えた人々が、ただの平凡な目的に向かって吐き出される。それぞれ個性や事情なんかありゃしない。背丈が1m70cm前後のただの魚卵である。

鞄ダコができた指に、いつもの七つ道具を入れた重たいカバンを引っかけ、今日も主任・島謙作は京王線の痛勤快速から吐き出された。その他大勢の魚卵の一つだ。
もちろん彼にも特別な事情というものがある。昨夜の茹卵がいけなかったのかそれとも単なるサボりの口実なのか。特別今日だけの話ではないが、いや、今日も、と言った方が充分正しい。とにかく機嫌が悪いのだ。

おまけに顎の下を剃刀で当たった時に、ちょっと切ったため、ただ一つのまともな白いシャツの襟に血の跡をつけてしまったからなのか、あるいは穴の開いた靴下しか見つからなかったからなのか、それとも、ラジオの星占いで「要注意」と出ていたのか。とにかくいつもの通り冴えない顔とむずかる腹に不安を抱えて、乗り換え電車へと消えていった。

土曜の夜を称える歌は世の中に数々あれども、月曜の朝を称える歌なんぞ、大阪の街で巨人ファンを見つけるくらい難しい。「素敵だぜベイビー、マンデーモーニングは最高だぜ」なにしろ月曜日の午前中は会議があるのだ。いつもの会議。ただでさえ少ないオフィスの会議スペースを奪い合うように、たいていどこだって会議なのだ。普段は「自主的フレックスタイム」が許される職場であっても、きっちり月曜日の午前9時には会議は開催されるものなのだ。

そんな時「えへへ」なんてあいまいなニタニタ笑いをしながら会議室に入ったりなんかしたら、30分間の罵倒の嵐が吹き荒れ、当人の出世、昇給、その他今後の生活全般に関わるすべての「生殺与奪の権」といったものを把握している次長に目をつけられるに決まっている。よりによって、謙作が一番大嫌いな次長だ。どうやら、自分の部下が利発に一番活発に意見が述べられるのは月曜の朝だと信じ込んでいるらしい。自分よりぜんぜんバカだと見下している部下に対して、自分ですら理解できない琴の調べを聞かせて、もっと理想の高い素敵なアイディアでも浮かべさせようという、どう考えても無駄な努力のために午前の3時間をボソボソと訳のわからない言葉を重ねながら費やそうとして努力するヒトなのだ。おまけに困ったことに、痔でも切らしたのかこちらの数倍は朝から機嫌が悪いときている。朝トイレで思いついただろう悪態の限りだ。

少なくともサラリーマンにとって、直属の上司というヤツほど選択権がなく、理解がなく、ワシらの人生といったものの首根っこを押さえているヤツはいないのだ。世の中の「上司」の諸君、暗い夜道は十分うしろを気をつけて歩くことだ。まったく管理職といった奴等はどうしてあんなに早起きできるのだろうか。
まぁ仕方がない。人の能力といったものをタイムカードを押す順番でしか評価できない連中である。彼らには足し算はできないのだが、人の評価の引き算は割と得意な連中なのだ。

大いに退廃的な一方的なご意見を拝聴して、腹の調子がやっとまともになった途端に昼飯だ。調子が良ければ「ひるめしのもんだい」というヤツはサラリーマンにとって、帰りの電車で「今日帰ったら何を飲もうか」といった問題と同様に非常に重要な午前中の問題なのである。
それでも昨日飲みすぎた翌朝の午前中、とても昼飯のことなんか考える余裕もなく、退屈な会議を終えると、パラパラと昼飯に散ってゆく。

午後は午後で退屈なものだ。

あくびをするか鼻の穴の掃除が仕事なのかもしれない。それで給料もらっているのだからサラリーマンとは気軽な商売なのだろう。食いすぎた昼飯のせいか完全にやる気を失いつつも、夕方には客に無理矢理作ってもらったアポイントの時間まで暇がある。涼しいコンピュータ室に向かうと、昼寝と決め込んだ。

たいしたことのないトラブルの報告書を二つ三つ作ったあと、顧客のシステムの点検に向かう。別に問題ないんだけれど契約だから仕方がない。駅のホームをあがると目の前を短いスカートをはいた若い女が駆け上がる。女はまったく能天気なものだ。それを見上げる男も勝手なものだ。スカートの中が見えないかと猥褻に期待しているのに、中身をめくり上げて確認したら、こんどはベッドの上でそれを取れと言う。よく動く白いふくらはぎを見あげながら、今日なんど目かのため息をついて、券売機の前に並ぶ。

客先で30分ほど四方山話をしたあと、「不帰社」と不機嫌な電話連絡を入れると、すでにそこは暗くなりはじめた東京の夕方の街。

今日も一日が終わった。

ここんところ慢性的に忙しすぎて、土日も仕事だった。さぞかしレジャーには最適だったであろうきれいな青い空は、昨日の雨の日曜日とは違う群青色に染まりはじめ、日が暮れかけた臙脂色の西の果てを縁取っていた。ビルから望む丸い地平線に富士山が勃起した乳首のように尖って見える。前回休暇をとったのはいつだったろうか。そしてこんど休暇が取れるのはいつのことだろう。

また一つ季節が終わったのだ。

発車のベルがなり、すでに満腹した痛勤快速電車にさらに人が乗り込む。やがてドアを閉じた電車はブレーキからゲップをもらすとガタリと中身の卵を均一に並べるように揺らして地下トンネルから夜の郊外に向かって滑り出した。

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