21世紀の夢 Nov2001
朝の電車は静寂と匂いに満ち溢れている。
まだアルコールが飛んでいない香水の匂い、整髪料の匂い、埃っぽい蒸れたウールの臭い、シャンプーと石鹸の匂い、刷りたての新聞のインクの臭い、納豆臭い吐息、皮のコートの刺激臭、高校生のイカ臭い匂い。お白粉の臭い、屁の臭い、乾ききった汗の臭い。湿りきった満員電車の曇ったドアのガラスを擦ると車内の数百人分のため息が交じり合ったチミモウリョウのヨダレの臭いがする。

クスクスと意味不明な女子高校生の笑い声と、サスペンションのきしむ音、新聞の紙と紙の間でインクが擦れる音、ウールの上着の衣擦れの音。時折鳴る電子機器の呼び出し音。ヘッドフォンから流れる寸詰まりの流行歌。

身動きひとつできない込み合った電車の中で、舟を漕いでいる目の前の若い娘は、まだ湿り気のある髪で薄いコートのショルダーベルトを濡らしながら、ドアの脇の手すりに凭れかかり、今日の明け方に見た夢の続きを追い求めている。

今朝の夢は随分はっきりしていたクセしてどうしても内容が思い出せない。ゼロだ。一体どんな夢を見たと言うのだろう。今日もバカみたいに巨大なカバンを抱えて、大都会を構成する物質の分子、サラリーマン、主任・島謙作は、満員の京王線のドアにカバンのストラップを挟まれてて身動きもできず、ドアにもたれて立っていた。吐息で曇ったガラス窓を、新聞の見出しで汚れた指先でコスりながら、微かに開いた窓から僅かに流れてくる湿った朝露の匂いに今朝見た夢の記憶を呼びもどされた。どんな夢だったんだろう。ノロノロと流れる住宅街の風景の向こうに夢の結末のヒントを虚ろに追い求めてた。

そう、せっかくいい夢を見ていたのに、下腹に感じたいつもの朝の排泄欲求に呼び覚まされ、今日はまだ週が始まって二日目の火曜日だということを思い出させた。だから、こうして今朝もまともな時間に出勤している。

結局夢の結末は誰も知らない。ただ記憶はZEROだ。
子供の頃、21世紀の電車と自動車は空を飛ぶものだとばかり思っていた。その前にノストラダムスの大予言が落ちてくるので21世紀は遠い世界にあるものとばかり思っていた。21世紀は手に入りにくいもので夢物語だったのである。

毎日、バカデカイかばんを抱えて、自動運転のロボットカーにも乗らず、いつもと同じ満員電車で出勤していると、同僚に「どこに出張に行ってたの?」なんて嫌味なことを言われることが多い。仕事柄、客先に立ち寄り、不帰社ということが多いもので、途中で連絡が入ったりなんかすると、そのまんま次の日も職場へ行かずに客先なんかに立ち寄ったりすることになってしまう。しかも次の座敷が控えているわけなので「結局貧乏ヒマなしでんな」なんて下手な関西弁でみたいな言い訳を並べながら次の出先に行くことになってしまう。

そうすると、どうしょうもない雑多な仕事というものがカバンの中に入ってしまうわけで、3日オフィスに寄らないでいると、訳の判らないデータCDだとか、コンピュータ関連の分解修理ハッキング関連七つ道具、客先で貰った資料、二日前の日経の朝刊、先週の週刊誌、読めなくなったフロッピーディスク、売れそうもないコンピュータシステムのカタログ、川崎の駅前で貰ったピンサロのティッシュ、あたりを圧倒的な下痢止めの匂いで染めてしまう正露丸のケース。読みかけで登場人物が同時進行しているミステリ2冊、まぁこんな夢のないグッツでカバンがあふれてしまう訳なのだ。

もちろんコンピュータ一式も持ち歩いているわけだから、電池の切れた予備バッテリー、今もって使い方の良くわからないグレ電用モデムケーブル、カバンの底の方で、リゲインの空き瓶なんかと同居したおかげでツメが折れたネットワークケーブルなんかがガムの包み紙と、洟かんで湿って丸めたティッシュペーパに紛れて転がってたりする。

今日も出先で昼飯だ。運河のカモメの群れが木枯らしに向かって飛び立った。

ランチタイムはもう終わりだ。

一度、このカバンの中から、「今ここで必要だ」という滅多に今は使われることのない変換アダプタなんかが、雑多なごみみたいなカバンの底から登場したときは「あんたのカバンはドラえもんのポケットみたいに夢いっぱいで、カバンを開けたときにドキドキする」といわれたことがあるのだけれど、それほど夢のある中身であるはずのないことは本人が一番わかっている。

こうして21世紀を迎えて一年が経つと、何も進歩しない自分と世の中に腹ばかりが立って仕方がない。一体、この人生で20世紀と21世紀の違いって何だったんだろう。

子供の頃の夢って一体何だったんだろう。ZEROか。
夜の電車は喧騒と匂いに満ち溢れている。
熟れきったウールの蒸れる匂い、ミルクの混じったコーヒーの吐息、腐った柿臭のような酒の匂い、汗の混じった香水の匂い、大蒜の匂いが混じった鼻息、油ぎった女の化粧の匂い、焼き肉屋の炭の染み込んだような匂い。ガムのミントの匂いにアルコール臭が混じり鼻先を流れる。シートに染み込んだゲロの匂い。夕餉の匂い。
出発を待つ電車は混み始める。こちらに背中を向けた目の前の女がいきなりスルリと上着を脱ぎ始めた。混み合った電車の中で少しずつ薄手のセーターにくるまれた形の良い丸い肩がだんだんとあらわになる。ゆっくりとゆっくりと。じらすように。
いいもんだ「脱ぐ女」ってのは。
たとえそれが混み合った電車の中でただ上着を脱ぐだけでもだ。「脱ぐ女」 えぇもう、活字にしただけでも実話雑誌の中吊り広告みたいにドキドキしてしまう。それをこんな風に焦らしながら動作にしてしまうと尚更だ。
××で○○を脱ぐ女。
一体、今夜はどんな夢を見るのだろう。いや、どんな夢を見させてくれるのだろう。
京王線の特急電車は新宿の夜の喧騒をそのままホームから乗せて、すっかり暗くなった都会の街の灯りの中を郊外へと抜けてゆく。
カバンを網棚に上げると、窓を開け、暗闇から吹き込む枯れた秋の夜の風を吸い込んだ。買ったばかりの週刊誌を広げながらも窓の外の外に流れる灯りを眺める。窓に吹き込む風に僅かに枯草の匂いが混じっている。今夜はどのような夢を見させてくれるのだろう。ZEROか。

今年も秋が終わり冬がやってくるのだ。

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