2003/09/26
その街へ行こうと思ったのはなんのきっかけもなかった。ただ僅か数日の休暇をどこで過そうかと考えていたら、ふとその街の名前が思い浮かんだだけのことである。「夏休みはいつにしますか、できれば来週に取ってもらいたいんですけど」夏らしい暑さがなかったこの夏の八月のきつい仕事が終って、新任の上司が、万年ヒラ主任の島謙作にそう声をかけたのは、ひどい残暑のゆり戻しが始まった九月の初めのある朝のことである。
「休暇か」もう八年も取っていない。
中小企業とは言っても一応ちゃんとした休暇制度はあるわけだし、勤続十ウン年もあれば、毎年20日の有給休暇だってある。もっとも、「今日は会社行きたくネー」とごねて、
「朝からハラが痛くて、トイレから出られず本日の出勤は非常に困難」という理由で休んだとしても、携帯電話は鳴るわ、メールは入ってくるわ、電話しろだの、どうすりゃいいのだのということで、結局午後から客先に行くハメになってそのまんま徹夜なんてことがあるわけだから、この八年間、まともに休んだことはなかった。
ということで、毎年有給残をごっちょり残して、「まとめて有給取れよ」の制度も使ったことがなく、決まったカイシャの夏休みや五月の連休ですら、ほぼ二年に一度は消化しきれないし、休めたとしてもほとんど自宅待機だ。
ということで、
「絶対に仕事につかまらない方法」を検討した結果「東京を離れる」ということがベストである、という結果になったのである。
まぁ、考えてみると、部長だの課長だのの上司なんかが休暇を取っていなくなっても
「いってらっしゃぁい!(そのままいなくなってもいいよぉ)」てなもんで後ろを向いて舌をペロリと出しておけばいいわけで、別にコッチとしては困ることなんて何にもないし、「いなくて宿便が取れたみたいにヒジョーにすっきりする」ということが多いのだが、現場の担当者が休暇を取ると言うことは、上司にとっては非常に恐怖なはずである。何しろ「担当者を出せ」ということになれば、担当者はいない訳だし、「じゃぁその上のニンゲンを出せ」ということになる訳だ。
まぁ、まとまった休暇が取れれば、行きたかった海外方面だとか色んな選択肢があるんだけれど、もともと八年も仕事と帰郷以外で旅行なんかしたことがないわけだから随分昔に「御褒美旅行」で取得したパスポートの内容も検討できないし、そもそも宿の予約だの乗り物の予約なんか怖くてできっこないのだ。旅慣れていないヤツにまともな旅行なんてできるわけない。
どこか面倒もなく行ける所ないのかなぁと明日から始まる休暇のことを考えていると、ふと思い出したのがこの港街である。
まぁ、一日チンチン電車だのバスだのに乗って、街をぐるりと一回りしてしまえば、後はチャン街で飯でも食って「おしまい」である。そんな街を巡った翌日、まだ、帰りの飛行機の時間まで時間はたっぷりある。
もっとも人生も仕事も旅行も無計画な性格だから、帰りの便だって予約なんて取っちゃぁいない。どこか暇つぶしでもないかと思ったら、学生時代の卒業論文に取り上げた作家の記念碑があるのをガイドブックの中に見つけた。街の中心から2時間ほどバスに揺られた岬の先にあるらしい。
その年は、新入生歓迎コンパの二次会の飲み屋で阪神のバース、掛布、岡田の三連発に巨人槙原が漠然としたシーンのテレビ中継で始まり、厳しい円高の年で、大学4年の就職活動はひどいものだった。まぁ今時の学生よりは、金融関係はバブルのハシリでひどい拘束なんかもあったらしいのだけれど、「高度成長時代」がひとつの曲がり角を迎えていた年だった。1ドル88円ではメーカなんかの採用計画な軒並みゼロで散々な学生時代の最後の年だ。くそ暑い夏の東京で慣れないねずみ色の上着を着て会社訪問だ。やっと見つけた空きスケジュールを見つけて、オンボロのトヨタを転がし城南島で日が暮れるまで、女の子と一緒に羽田を飛び立つ飛行機を見つめていた、あの学生時代最後の夏休み。あの飛び立つ飛行機の中のひとつが沢山の命と共に山奥に散ったことを知ったのは次の日のラジオのニュースだった。フライカスンマ。当時流行の写真雑誌はそんな悲惨な写真でジャーナリズムを気取っていた。
毎日更新する円高を伝える日経新聞と、タイガースの躍進を伝えるスポーツ新聞と、「新人類の旗手達」がウリだった筑紫哲也の「朝日ジャーナル」と、卒論用の資料を抱えて慣れない勝負服を着て、初秋の東京の地下鉄を乗り歩いていた。
日経の夕刊とスポーツ新聞とネクタイをドサリと図書館の机に放り出して、卒論の原稿用紙を広げた。万年筆のインクの匂いを嗅ぐと、必ず、図書館の近くにあるラーメン屋のラーメンが食いたくなった。人生まともに悩んでいても、しっかりハラは空くものである。
結局卒論の評価は「可」だったし、もともとそれ以外に「優」なんて三つしかない文系のツブシの利かない学部の学生だし、まともな就職も決まらず気が付けば、三流企業のコンピュータのエンジニアになっていた。
それから18年。
2003年の阪神の優勝を伝える週刊誌の特集記事を読みながら、一時間に一本しか来ないバスを待ち、夏の名残が残る岬めぐりだ。山本コータローのフォークソングが頭の中でしつこくリフレインする。左の指が無意識にギターのB7のフレッドを探る。
「岬めぐりのバスは走る、窓に広がる青い海よ」汗まみれになって岬のきつい勾配を上り、記念碑は夏の終わりの真っ青な海が見渡せる岬の突端にあった。
人生はピンと伸ばした糸のようなもので、時にはまっすぐ進み、時には平行に永久に交わらないこともあれば、ひどく交わってとんでもない方向にねじまがって進む場合もある。一体、この人生、誰に影響されてここまでひねくれて、そしてこのひねくれた人生が誰の人生をひねくれさせたのだろう。人生はこんなにも哀しいのに、海は沈黙したままあまりにも蒼い。
残暑の厳しい九月の午後とは言え、彼岸過ぎの午後は時の経つのは早い。小学生が手を振って国道を渡るのを眺めながら、日が傾き始めた小さな漁港の西日の照り返しが強いバス停で街に帰るバスをじっと待つ。岬めぐりの残りの詩がまたしつこくリフレインする。「悲しみ深く海に沈めたら、この旅終えて街に帰ろう」右の指がAマイナーでスリーフィンガーを叩いた。もう、二度とこの地に来ることはないのだろう。それでいいのだ。