客先の仕事の都合で東京23区に残された最後の秘境、世田谷区内の某所に通勤している島謙作。戻るまぁ短い間ではあるのだが、都内某所の自分の職場より近いわけで、客先は都内とは言え世田谷の田舎にあるのだから朝ものんびりしたところであるから「余裕のヨッチャン、犬はワンちゃん」という下手なおやじギャグの三つも四つもかます事ができる。
ところでワシラ多摩奥地の京王沿線住民が世田谷区内に出かけようとすると、あの下高井戸駅から乗り換えて行ける”世田谷線”というやつを利用することになる。そう、下高井戸、調布方面からだとどう考えても明大前の手前であり、たとえトイレに行きたくなっても、ハラが痛くなっても特急電車は緊急停止でもしなければ止まらぬわけで、通勤快速だって通過してしまうあの駅だ。かろうじて昼間の快速電車はオナサケとばかりに停車はしてくれるのであるが、調布より奥地に住んでいる沿線住民にとっては用件がなければなかなか利用しない駅である。
それに下高井戸から調布、府中方面へ帰ろうとすると各駅停車しか帰る手段がない。まぁ、よほどのことがなければこんなところで降りるわけないだろうな。
昔、下高井戸には小さな三番館があり、よく古い映画を見に行った事がある。ついでに三軒茶屋まで映画を見に出かけた記憶があるくらいだ。
地図を見ると世田谷線は下高井戸から盲腸のように世田谷区の中心部に食い込み三軒茶屋まで垂れ下がっている。
京王沿線に住んでいれば、下高井戸の南側からあのミドリ色のチンチン電車を見た事があるだろう。西武多摩川線だとか、京成金町線みたいに、本筋の東急のエリアを外れて「ン?なんで!」というこんなところに東急の電車が走っているのである。
とは言え、世田谷線といえば古くからあるあの、東急の玉川線のチンチン電車の名残りの線らしいのである。まぁ由緒があるといえばそのとおりであり、由緒があるついでに、車体も非常に由緒があるといえばよろしいわけで、まぁ早く言えば古くてボロイ車体なのだ。途中で眠くなっても座って眠り込むことも許されない。何しろゆっくり走るくせに、ひどく横揺れがするのである。居眠りなんかしたら、ロングシートから振り落とされるくらいの勢いだ。ズボンのお尻のあたりが途端に不安になるくらいのゆれなのだ。
それに床は木の床であり、もちろん冷房なんか付いていない。暑い季節なんかは運転台の窓さえ開け放っている。運転台の窓だぞ、間違って鳥なんかが突っ込んできた日には悲惨な事になるのだろうけど、世田谷の結構いい土地を走る路線のせいか、カラスなんかは飛び込まない。腐っても東急沿線、世田谷区内、結構途中からきれいなオネェさんなんかが乗り込んでくる。こないだもナイスバディなおねぇさんに胸を押しつけられてどきまぎしていたら、途端に睨まれたけど....
まぁ、運転手も暑いわけで、電車はゴォーというものすごいモーターのうなりごえを上げながら、自転車ほどののんびりしたスピードで世田谷の二階家ばかりが広がる住宅地のド真ん中をひたすら進むわけだ。
蒸し暑い車内を沿線の夏草の乾いた空気がすり抜けて行く。
世田谷線にはルールがあって、乗客は一番前と一番後ろの乗務員、つまりは運転手と車掌がいるドアから乗り込みその場で 130 円払い、中まで進んで行く。降りる客は近くのドアから降りてよろしい。定期を持つ乗客は定期を高くかざして真ん中のドアから乗ってもいいというのがどうやら世田谷線のルールらしい。朝は半分くらいの客が定期をかざして乗り込んでくる。
先日、一番後ろの車掌の側で見ていたら、車掌は結構忙しそうだった。何しろ駅間距離が異常に短い。昔のバスの車掌みたいに運賃箱を扱い、「次わぁ....」と車内アナウンスをして、更に電車の窓から頭を突き出し、頭上の緊急ブレーキをつかみながら、車外の駅の乗客に向かっても「ハイ、前後のドォアからぁお乗りくださぁい」なんてアナウンスをして、安全確認だ。
それも、乗客のいる車内とは仕切り棒一本で分けられているだけなのだ。それだけにここの車掌は気味が悪いくらいみんなまじめに働いている。何しろ運転台も車掌も乗客から丸見えなのだよ。
そんな世田谷線にも新型車両が現れた。ブルーの結構かっこいい車体である。しかも冷房付きだ。床が都バスの新型車両みたいに低くって、ジジババなんかは評判よろしく結構ヨロコンでいるだろうな。
ところが座席はあのロングシートじゃなくなって、前か後ろに向かう形式となって、必然的に座れるスペースが少なくなった。まぁ乗っても15分くらいの距離だからたいしたことはないのだけれど、山の手線の人畜運搬車、前から二両目みたいにちょっと味気ない事はいただけない。床が広くそれにあのひどい揺れがなくなったのは誉めてもいいが、ロングシートにカップルで並んで座るのも風情があったのだろうが、やっぱりあの電車ではどうも世田谷線に乗ったという実感が湧かなくなって、あまりよろしいものではなくなった。
世田谷の大都会、三軒茶屋の駅もきれいになってしまった。キャロットタワーだとかいう結構デカイビルが建ち、世田谷区内でサンマイクロシステムズがいる用賀のビルとローカルな高さ比べをしている。住宅ばかりの森が広がる世田谷の夜にそびえ立つドングリみたいなものだ。夜も遅くなれば、TSUTAYAなんかが遅くまで空いている。
それでも夜になれば住宅地。
駅前を除けば、まわりは暗くなり、三軒茶屋の駅で 130 円を払い発車寸前の新型の世田谷線に滑り込む島謙作。
夜も遅いせいか、人のあまり乗っていないし、シートも空いている。冷房の効いた車内でキオスクで買った雑誌をやれやれと広げると世田谷線のチンチン電車はゆっくりと下高井戸に向かってズリズリと走り出した。
そう下高井戸へ行くハズであった。
「えー毎度、東急世田谷線ご利用いただきましてありがとうございまぁす。この電車はカミマチ行きでございまぁす。上町で車庫に入りまぁす、プチリ!」と車掌のアナウンスが流れた。
ン! 上町行き? という事は上町でまた下高井戸行きに乗り換えなければならないのだ。オイ、ちょっと待ってくれ、あ、んじゃ乗り換えか?
ん、 じゃなんだなんだ。また 130 円払えというのか?
そう、これが世田谷線のルールなのだ。まもなく電車は上町に到着し、電車は車庫に、車掌は待ち合い室へ、乗客は夜の住宅街の街路へと消えた。
後には ミドリイロの下高井戸行き満員電車を、ポケットの小銭を探しながらポカンと口をあけて待つ島謙作と、いつものバカデカ鞄と裸電球に群がる虫だけが夏の夜のホームに残された。
世田谷の夜は静かだが虫の声は聞こえない。まだ今年の長い夏は始まったばかりなのだ。